武将の庭(室町・戦国・安土桃山・江戸時代)
  武将の庭として取り上げたが、特に戦国時代から安土桃山時代のポイントを絞って記述する。
戦国武将はわが命を守るのは己の力だけである。それゆえこの時代の武将の作品は庭園に限らず、力強く豪快である。安土桃山時代になると天下を取った秀吉の時代になると絢爛豪華なものになる。

戦国時代
 
  庭園で見てみると戦国武将の庭の代表は福井県の朝倉氏遺跡にある各庭園がその代表ではないだろうか。庭園は朝倉氏が秀吉に滅ぼされてからは一乗谷にそのまま放置されたために、この庭園はそのまま化石状態で残ることになった。次に戦国時代の武将の庭園としては旧阿波国分寺庭園が上げられる。このものすごい勢いの庭園は一体何であろうか。これだけの資材を惜しげもなく使って自由奔放、豪快無比、疾風怒涛、どのような形容詞でも言い表せない。どれだけの経済的基盤と、文化的基盤があったのだろうか。このあたりが解明されないと本当の評価が出来ないのではないだろうか。徳島城の千秋閣庭園に似ているけれど、もっと緻密で隙がない。

安土桃山時代

  円徳院の庭は伏見城から移石して作られたようであるが、狭い空間に鋭い角度をした石が所狭しと並んでいる。中でも鶴島と亀島を繋いだ石橋は厚く粗野に見える石である。この石橋は天下人になった秀吉が、仙人が住むといわれていた蓬莱山へ、直接に踏み渡ることを意味している。戦国を生き抜いてきた信長や、秀吉の時代になると神や仏よりも実力が全てであった。それゆえか滝はあるが鯉魚石はもはやない。登竜門の故事は不必要なのだ。同様に三宝院、二条城においても鶴島、亀島に直接行けるように橋を架けるようになった。

戦国武将と茶室
(曼朱院の茶室にて斉藤先生の話)
  数寄本来の茶室とは「転戦する戦場で盟約を結ぶため、俄か作りの仮小屋で茶を飲み回し、密約を結ぶ場所」である。例えば、葦が格子となった窓は、明かり取りのために塗り残した壁の部分の芯の葦がむき出しになったためであり、壁に紙が張ってあるのは、塗りたての壁土が武将の衣服に付かないようにするためである。木材の種類が異なり、曲がりくねっていいるのは、そこいらの木々を使ったためである。何とシンプルで清々しいことか。

金閣寺(鹿苑寺)  金閣寺が最もよく見える場所  不老長寿の蓬莱山に向かう亀
  鏡湖池には10個の島があるが亀島が5島、鶴島が3島ある。他の2島は芦原島と淡路島である。

▲葦原島(日本)を管領の細川氏が舵を取っている

▲鹿苑寺(金閣寺)の龍門
  西園寺公経、実氏親子が1200年代に作庭記風の庭園を作り、藤原定家も明月記で池泉が瑠璃色の美しさであることを記している。この鎌倉時代の庭は約110年後に足利義満が譲り受け、舎利殿(金閣)などの諸堂が作られた。この庭は龍門瀑、蓬莱諸島、岩島、池の形態などから明らかに鎌倉時代の特徴を示していると言われている。また、金閣はもともと池の中央にあり、龍門瀑付近から拱北廊と言われる空中廊を渡って入ったそうである。この閣の三階は床はもとより壁、天井と全面に黒漆が塗られている。このような仕掛けの中にローソクを灯すと、金色の阿弥陀様はあたかも万華鏡の中の幻想的な極楽浄土の世界にいるかのような錯覚に陥る。

▲龍門瀑
  この滝とほぼ同様の滝が、その名を示す天龍寺にある。ともに中国の故事にある「登龍門」の由来である鯉が、三段の滝を登って将に龍に化す様を現している。中国南宋よりの帰化僧の蘭渓道隆禅師が中国の故事にある登竜門(鯉が死を賭してまで竜になるべく努力するさま)にならって、人間が観音の知恵を得る(悟る)まで、努力をしなければならないことを日本庭園の形で教えている。このようなわけで鎌倉、室町時代は庭園のメインテーマが滝になるのである。                                                          

銀閣寺(慈照寺)

▲慈照寺(銀閣寺)
 足利義政が応仁の乱の後に長年かけて自ら河原者使って作った庭である。彼は愛する西芳寺を常に訪ね、それと同じ庭を作ることを理想としていた。このことは蔭涼軒日録に義政は石や樹木まで自ら選んでいたことが詳しく記されている。見所は滝、東求道前の白鶴島石組、石橋などである。
  一方、白川砂からなる銀沙灘、向月台はその発生の由来は諸説あるが、池の底ざらいされた白川砂が積もったとする説が有力だ。
  現在我々は銀沙灘、向月台などを抽象的な芸術として鑑賞しようとしているが、如何なものだろうか。庭園のど真ん中にこのような異物が無い時には、どのような石や、建物があったのであろうか。義政の時代の作品を鑑賞したいものだ。
第一この庭からは藤戸石を初め多くの石が持ち出されているのではないか。金閣、銀閣と並び称されているが、こと庭園に関してはずいぶん違うのではないか。義政は家督問題に端を発した応仁の乱のさなか1473年将軍職を義尚に譲って、もっぱら銀閣寺になる山荘作りをし、8年後に亡くなった。義政公の作った庭園は現在見ている庭とはもう少し違った姿の庭が想像される。

朝倉氏御湯殿遺跡
  朝倉氏は義景の時の1573年織田信長と戦って敗れた。ここには諏訪館址など四つもの庭園があり、戦国末期のこの時代はいかに庭園が好まれていたかが知れる、と同時に戦国武将たる資格として、茶の湯や庭園などに関する芸術を理解できなければならないことがわかる。現代我々ははたして未来に残す文化を育んでいるだろうか。この近くには、養浩館や永平寺をはじめ縄文時代のチカモリ・真脇の巨木遺跡や桜町遺跡があり、訪ねてみたい地域である。
  さて当庭園であるが、鶴島の鶴は山側にある滝や蓬莱山に向かっている。また亀頭石を中心とする亀島も同様に蓬莱山に向かっている。いわば客にお尻を向けているのだ。斎藤先生は「図解 日本の庭」によると、鶴亀が客を背に乗せ滝を遡り蓬莱山へと誘っている形、と解釈している。そうなると保国寺(西条市)の亀もそのように解釈できる。
    

旧秀隣寺
  細川高国は管領職を18年間務めた。その間12代将軍を補佐し、13代将軍に義晴を就け、補佐した。しかし1527年に柳本賢治、細川晴元、三好元永らが京都に攻め入ったために、細川高国は将軍足利義晴とともに坂本に逃れ、さらに翌年朽木に逃れた。将軍はここに2年半滞在した。

北畠神社
細川高国が天王寺の戦いで破れ、尼崎で捉えられ、自刃する前の辞世の句に
 「絵に写し、石で作りし海山を、後の世までも目かれずやみん。伊勢の国師へ」

松尾神社
島を結ぶ石橋は巨大でこの時代の気風を示す

旧阿波国分寺

阿波国分寺
 くぐり戸から入った瞬間、我々は言葉を失った。まるで台風が総てのものをなぎ倒したような殺伐たる風景があった。3m前後の緑石がぎっしりと積み込まれているこの庭園はどんな天才作家が作ったのか、どのような気持ちで、どのように神がかったのか、またこんなエネルギッシュな時代が日本にあったのか、頭の中は次から次へと疑問が湧きあがってくる。しばらくして興奮が収まってきたので、例によって重森先生の解説書を読んだ。そのつもりで見ると総ての石が意味をもって配置されている。いちいちそれを確認してみたが、なんとそれが無意味なことか。このように伝統に裏打ちされた芸術に触れると時間を越えて芸術の偉大さが伝わって来る。初めは入門をいぶかっていた住職も我々の感情の嵐が過ぎ去った頃を見計らって出てこられ、改めて解説をしていただいた。何でも徳島県がやっと復元工事を始めるそうであるが、願わくば、十分なる時代考証をしてから着工して欲しい。これこそ世界一の庭園と言えるのではないか。ああ今日は良い日であった。

▲願勝寺(徳島県) この滝は天竜寺を手本としていて、1段目の滝を登り、次の滝に挑もうとしている

三宝院
  庭好きの秀吉が縄張りをした思い入れがある庭である。鶴島、亀島は理想的な石でがっちりと組まれ、その間からは蓬莱連山が望める。三段の滝も最も豪快に組まれ桃山時代らしさがある。
  それと藤戸石。名石として名をほしいままにしているが、彼の運命は流浪の民である。元は岡山県の藤戸の渡の川の中にあり、当時から有名であった。これを義政が銀閣寺に運び、それを細川氏綱が運び出し、更に信長の条城へ移り、秀吉が聚楽第に移し、最後に三宝院に落ち着いた。

円徳院
 高台寺付近にあるこの庭はねねの居館である。石組は桃山時代の絢爛豪華さを表していて、上の二条城、名古屋城二の丸や千秋閣に類似している。しかし、繰り返される三尊石組がパターン化の傾向にあり、枯滝石組は中心となる要が不明のためか求心力が失われ、何か拡散した印象を受ける。その訳は桃山時代になると神聖たるべき蓬莱島へ橋が架けられるようになる。その背景としては既に天下人となった武将は蓬莱島を理想の島とは考えなくなってきているためである。このことは上の二条城の蓬莱島も同様である。

二条城二の丸
 江戸初期の作であるが、家康の屋敷に作った庭であるため、桃山時代の雰囲気が全体にみなぎっている。天下人の庭は広く且つ豪華でぎっしりと詰まった石組は一分のスキもなく息がつまりそうである。護岸となる石も二重三重に組まれているので、このような圧迫感のある庭になり、以降このような迫力のある庭は出現しない。尚この庭は後水尾天皇を迎えるために作ったのであるが、天皇はこのような武家の庭では安らぎを得ることが出来ず、自らの理想を修学院離宮として結実したと言われている。

保国寺
  この寺の創建は奈良時代にさかのぼるり、1312年には足利尊氏により官寺となる。往時はかなりの規模の寺であったらしいく、相当広大な庭園があったのではないか。現在の庭園は滝と亀島が残っているので十分に観賞できる。先ず全体構成であるが湾のような形をした奥に蓬莱山と枯滝がある。そこへ向かって湾の幅一杯の亀島がが突進している。今にも陸地の蓬莱山を駆け上らんばかりである。鶴島があったなら何処にあったのであろうかとか、亀さんはなぜお尻をこちらに向けているのだろうかとかを想像するのも面白い。なお、このよう名園を地方で探し当てた時の喜びは旅の楽しみの一つだ。

知覧の武家屋敷
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