中田家 池泉回遊式観賞庭園  江戸時代
長野県松本市出川町2-23-4  電話:0263-25-0349  参観は予め電話で先方の都合を確認
沿革
  中田家は甲斐武田氏に仕えていたが、武田家の滅亡のため松本で浪人になってしまった。しかし丁度小笠原貞慶公が松本の城主になるにあたって、そこに再就職を果たした。小笠原氏の移封に伴い岸和田、明石にも従った。しかしその後松本に帰農し、新たな城主、戸田家時代に大庄屋になリ、爾来明治2年まで続いた。また1777年からは酒造業も営み、明治13年には明治天皇の長野県巡幸の最、休息された。今もその書院は残されている。
庭園
  古書院が作られた元禄の頃に作られたと思われ、藩士の来遊も多かったが、文化年代には戸田藩の藩儒者、木沢天童が中田家の庭園について「鶴亀石記」を記している。庭園の構成であるが、やや大きめの池に、鶴亀の島があり、築山が三つある.中央築山には蓬莱山石組みがあり、その背後には石灰岩の三尊石がある。中央やや左側には枯滝がありやや渓谷風に作られている。庭園を六室が取り巻いた建築物が建てれれ、各部屋から夫々の趣を楽しむ事が出来る。作られた時期は古書院と同時期の貞享から元禄時代と思われる。尚、当庭園はその後の改修部分を、重森三玲、斎藤忠一氏らによって昭和44年に修理された。

杉苔の移植
杉苔の育成はなかなか困難である。ここでは鶴島亀島に苔を移植したのでその風景を紹介する。
  杉苔移植方法

▲右側の建物は江戸時代初期から中期のもの。母屋は明治中期に建て直されたもの

▲門を入ると明治天皇が巡幸された旨の碑と県(庭)と市(建物)の文化財指定の看板がある

▲古書院からの眺め

▲小書院の床と違い棚

▲古書院の柱は大面取り十五分の一、濡れ縁、内側には台目の廊下、腰障子、棹縁天井

▲雨戸と腰障子を取り払い、庭園を眺めると、あたかも庭の中にいるような錯覚を覚える

▲小書院の控えの間の床の間と違い棚

▲欄間による仕切りが部屋をより大きく見せる効果がある

▲小書院の釘隠しは手が混んでいる           ▲違い棚のデザインには工夫が見られる

▲鶴島亀島が揃った庭は珍しい(杉苔移植方法)

▲中央部の景:手前が亀島、右側の立石は蓬莱山、中央が三尊石、左側が渓谷風の枯滝

▲中央の築山にある三尊石(石灰岩よりなる太湖石)と蓬莱山

▲三尊石は大湖石よりなっている

▲ボタ雪

▲雪に埋もれる(中田裕基氏提供2007/1/7の大雪)

▲枯滝

▲手前から鶴島の羽石、蓬莱山石組み、三尊石

▲右から三尊石、枯滝、奥が築山三尊石、蓬莱山(一部)

▲東側築山の三尊石

鶴島

▲玄関は欅

▲梁

▲内玄関と大黒柱

▲大台所
  当初はここに大きな囲炉裏があったと思われる

▲庭に面した四部屋(手前側に二部屋)
と欅による一枚板の廊下

▲柱の森より母屋廊下方面を眺める

一間畳床と一間違棚がある

▲戸田藩の儒学者が「鶴亀石記」を記している
  時代は文化二年(1802)と記されている。


鹿都部真顔が中田家で歓待された様
  時期は他の文章との関係から、やはり文化・文政の頃
「一九が町にやってきた」鈴木俊幸著 高見書店
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