狂歌師・鹿都部真顔が「中田家」に逗留

真顔は江戸狂歌会の一角を支えた狂歌師であるが、松本に文化2年(1805)にやってきた。

真顔の狂歌碑は長野県に八基あり信濃との結びつきが強かったことは明瞭である。

 高美書店(高美家)には、信濃を訪れた時に作成をされたと思われる、真顔の狂歌稿が所蔵されており、それにより松本における真顔の足跡がわかる。

この稿によると、真顔は浅間温泉、広沢寺、放光寺、微席宅(松本を代表する俳人)と共に「中田家」にも訪問した。真顔は当家での厚遇を物語る詞書(ことばがき)と狂歌がが記されている。

 本文は『源氏物語』帚木の巻や空蝉の巻の一説を取り入れて解読には高度な古典の知識が要求されるが、ここでは、当家の歓待ぶりを中心に現代語訳を鈴木俊幸 著『一九が町にやってきた』 高美書店(2001年1月刊)から抜粋する。

 出川に近いあたりの中田君のもとを訪問したところ、その居宅のようすは堂々と立派であり、庭の木立や立石などにも心づかい細やかで、お殿様もわざわざここにお立ち寄りになるというのも、なるほどもっともだ。紀伊守の庭にまったく劣らない素晴らしさである。
 ここのあるじが、立派な男児らを三人ももっているのは、隠れた徳のなせるところであろう。中田家の翁は自分とおなじ年齢と聞いていたが、仏道への信仰が深く、もう世をしりぞき、その長男が今の当主となっている。娘も出てきて、何くれとなく世話をやいてくれ、こんな私まで客あつかいしてもてなしてくれる。三男は、まだ幼いが、とても美しく育っていて、酌をしてくれたり、肴を持ってきてくれたりするが、そのようすや物腰には品格がある。旅の老人の酔っぱらった心には、光源氏がお召しになった空蝉の弟の「小君」とも見なされ、空蝉の様に魅力的な「小女郎ぬし」との逢い引きの手引きなどたのむような「戯れごと」などしてしまいそうなくらいだ………………

 蕎麦がきを調理して出してくれたのがとても暖かく思われて。
狂歌「これをこすものはあらじな信濃なる山のそばがきあたたかくして」
 これを超えるものはあるまい、なにせ信濃の山の「岨」(そば)ならぬ蕎麦がき、これが暖かくてとびきりのうまさであるから。
 夜の寝具もあたゝかく、其れに酔いごこちまでくわわって雪や霰の外の寒さも意識することなく熟睡して、明け方にみてみると夜着には笹の葉の模様を隙間なく染めてあった。
狂歌「酔てふす夜のころもの玉笹にさらさらしらずあられ降をも」
 それに法華経の経文のことなど思い合わせられて………………。