坐禅石の系譜
  坐禅は禅宗において最も重要な修行である。特に臨済宗においては庭園は鑑賞の対象としてではなく、修行の道場であったのだ。極端に言ってしまえば坐禅石の系譜とは「夢想国師の系譜」となる。  当系譜にはこだわりがある。なぜならば坐禅石は単なる石の一つではなく禅を象徴していると考えているからだ。禅の庭の発生は修業の場としての坐禅石から発生したと考えるからだ。

▲上記写真の拡大:中央に坐禅石状の石があり、左側上部には平滑な面をした半円状の観音石状の石
  があり、右上には龍門瀑がある。このトライアングルで禅の世界を表しているのではないか。
  伝承によると蘭渓道隆がスパイ容疑で甲州に流されていたときに東光寺にいたとされている。
  このとき庭  園を造ったとされている。但しその庭園が現在のものであるかは不明。
  現在の庭の骨格が蘭渓道隆であるとの節の根拠
  @累々と積み上げられている石の多さと、積み上げ具合(従来の日本庭園は石組みによる)
  A龍門瀑形式は禅様式であり、且つ彼が来朝して上洛する途中大分県の九重町の滝の前に、
    龍門寺を作って滝を龍門瀑と称した。
  B鎌倉時代から龍門瀑様式の庭園が流行するが、ほかに造園をする僧侶が見当たらない
  坐禅石の根拠
  @石の形が他の石と異質である
  A円柱状の坐禅石状の周りには、修行僧が坐禅するに適当な広さがある

▲永保寺  山の中腹にあり観音堂、梵音岩(古代より磐座として聖地であったのだろう)を俯瞰

▲南禅寺・南禅院
  最近(平成17年)にき気が付いたのであるが、形からしても、経過(後醍醐天皇が無窓国師を招聘した)
 からしても、坐禅石であることがかなりの蓋然性が高いのではないか。但し当園は傾斜地の土砂崩れ を戦後修理した事が知れているが、そのときに石が持ち込まれていないことが前提である。
  上記仮定が正しいとするならば、夢窓国師は西芳寺の原型を4〜5年前に作っていた事になる

▲西芳寺  坐禅石と龍渕水  ものすごい迫力。将に禅そのもの
 
▲西芳寺  龍門瀑                 ▲上段の滝の俯瞰図   斎藤忠一 図解日本の庭

▲曹源池の辺にある坐禅石

▲旧天竜寺境内の亀頂搭跡にある

▲天竜寺・宝巌庵
  当園が何時作られたのかはっきりしないが、広大な敷地に極端に大きな石が点在している。人工的な石の持ち込みは上記坐禅石くらいである。現在われわれが庭園としてイメージするには石組みが少なく、庭園らしくないようにも感じる。しかし、もしここが鎌倉時代の修行の場としてであるならば、これほど爽やかな場は他には無いのではないか。

▲鹿苑寺(金閣寺)の坐禅石と銀河泉(銀河泉の右横に厳下泉がある)

▲天平になった石は永保寺、西芳寺の坐禅石とそっくり
鹿苑寺へのお願い
  当庭園は西園寺公の極楽浄土式の庭園を、足利義満が譲り受け、禅寺風に一部改造したものである。鹿苑寺が禅寺であるとするならば、この坐禅石部分と龍門瀑部分が最も重要な場所である。しかし現状においては、龍門瀑の立て札が一枚あるだけである。日本庭園の真髄は禅精神にある、と思うので是非この辺りを懇切に説明していただきたい。

▲慈照寺(銀閣寺) 庭園岩組みの一つになった
。当初からの石ではない、と思われる

▲漱蘚亭跡と相君泉(左側)と上部岩組み(露出岩盤の岩を利用した岩組み)

▲相君泉  西芳寺の坐禅石と龍淵水の構造そのものではないか。左右の坐禅石は形式化したとはいえ西芳寺の坐禅石の意味合いがかろうじて認められる。上記写真のような岩組みがこの相君泉の隣にあるのだから、明らかに西芳寺の坐禅石・枯滝を倣ったものと考えられる。

▲大徳寺・大仙院  写真中央にある天平石が坐禅石と命名されているが位置が不自然である。

▲酬恩庵 この坐禅石は正面の観音石と龍門瀑に向かい合っている。実際に修行の場として使われたのではないだろうか。