縄文、弥生遺跡
神道の石組、神島を日本庭園の源流的に考察する
  日本上代は信仰の対象として磐座、磐境や神池、神島があった。その後帰化人により新仙蓬莱思想の伝来により観賞の対象として庭園が出来てくるのである。上代人は大自然の中に永遠不滅の巨石を神の宿る場所(磐座)として認識した。また、そこを神聖清浄な地域として保存するための境界石(磐境)を人工的に組んだ。一方、海洋民族としての日本人は神を奉斎するための神聖な場所として海中の島を定めた(神島)。その後、天皇の宝殿として水垣宮、軽の曲峡宮(曲線のある池)、磐余池(舟遊びの池)が出現し、ついに蘇我馬子が飛鳥に中島のある池庭を作ったため「島の大臣」と言われるようになり、完全に庭園が発生したことになる。

▲朱円環状土籬(しゅえんかんじょうどがき)
この環状土籬は一般的にある環状石籬(環状列石=ストーンサークル)に比べ珍しいものだ。何でも2000年から3000年前に作られたもの、とのこと。ストーンテーブルやストーンサークルがケルト人やシベリヤ、朝鮮では広く分布している。これらの流れが日本にも来たのだろう。日本海を地中海に見立てればさもありなん、ではなかろうか 。

▲忍路(おしょろ)のストーンサークル
ここを訪れるきっかけは、日本庭園の革命児重森三玲先生の日本庭園央大系の上古日本庭園源流を約30年前に読んで以来、古代石造物と日本庭園の関係をつらつら考えていた。幸いHPIの調査で苫小牧へ行く機会を得たので早速訪ねた。それは夏草に覆われていたが、地上約1.2mの高さの円柱群がぎっしりと林立していた。約60mの楕円形の遺跡を見ながら、遥か5000年前に思いをはせた。その後イギリスのストーンサークルも見に行ったが、この起源については依然謎のままである。なお、この村にはある翁が集めた縄文博物館がある。松本清張氏の訪問時の写真があったが、翁の熱心な説明は今も鮮やかに甦る。

▲三内丸山遺跡

  4500年前の遺跡が日本考古学の定説を覆した。既に彼らは定住し、栗などの栽培もしていた。全国各地との交易もしており、建物も現代人の予想は全く的外れである。柱の太さ、部屋の大きさ、柱の結合穴など。5000年前より人間は大地と共存して生きていた。我々は常に現代を基準にして過去を見る。しかし、今は、石油がなければ人類60億人は生きて行けななくなってしまった。なお、6本の巨大柱穴と同様なものは、富山県の真脇、チカモリ、福島県の宮畑遺跡でも発見されている。

▲大湯のトーンサークル(環状列石)
  秋田県鹿角市近くにあるこのストーンサークルは、昭和6年耕地整理中に発見された。道路をはさんで野中堂と万座に2つあるサークルの径は42m、48mで各々二重の環状になっている。この不思議なモニュメントは何であろうか。日時計説、墳墓説などがある。
 私はここを三度訪れたが、すぐ隣のリンゴ園で、もぎたてのリンゴを丸かじりした時の甘酸っぱい味を今でも思い出す。

▲湯宮神社 頂上には巨大な磐座が鎮座  大巳貴命と須勢理比売命

▲湯宮神社
南側に突き出た岩は少彦名神を祀る。神力により一点を押すだけで動くことから通称「動き岩」
庭園の源流としてみなすと
  自然の巌が頂上に所狭しと転がっている。これを観賞の対象として楽しむことが出来るであろうか。私は有無を言わずにここの雰囲気に圧倒された。自然の巌が点在するだけであるのに。では芸術とは一体なんであろうか。自然の状態のほうが感激するのであれば、人工的な造作はなんと空しいものであろうか。日本人が自然を崇拝する気持ちが伝統的に培われてきたから感動するのであろうか。では何の先入観も無い外国人ならばどのような感じ方をするのであろうか。
  人工的な庭園でこの神社と雰囲気が似ているものとしては、先ず徳島県にある旧阿波国分寺庭園がある。鋭角の巨石が天を衝いて林立している。すさまじいとしか形容できない。次に挙げるならば重森三玲先生の遺作となった松尾大社(京都)の上古の庭ではなかろうか。この神社にも本殿背後の松尾山に巨大な磐座があり、大山咋神(おおやまぐいのかみ)、中津島姫命(なかつしまひめのみこと)を祀っている。上古の庭はこの祭神に因んで磐境を想わせる巨石が縦横無尽に林立している。まさに「神々の遊び」である。
  今回この神社を尋ね磐座、磐境と庭園に着いて考えさせられた。帰途付近にある遠見温泉の露天風呂に行き展望の露天風呂を楽しんだ。
 
▲石像寺の磐座
  この磐座は氷上丹波の小字名が岩倉にある、その字が示す通り明らかに磐座が石蔵になり石蔵(せきぞう)と言われ、石像と書かれた。尚、本来は神社であったが寺院になっている。さて、当磐座は山の中腹に忽然と姿を現しているが、朝日を受けた真っ白な巨石を神と言わずに何と表現できようか。この御神体を拝むための拝殿の位置に現在は寺があるがそこには重森先生による四神相応の庭がある。

▲鞍馬神社奥の院
 京都の中心部から約20Km北にあるこのクラマ寺は元は貴船神社(水を祭る)の倉マであり磐座である。この聖域は小ぶりの石を集め、完全に人工的に作られたものである。なお、ここもやはり聖域の中心に社殿を建ててしまい、本来の姿が忘れられている。

松尾大社
大山咋神(おおやまぐいのかみ)を左から望む(部分)  古代人ならずともこの迫力には圧倒される

巣山古墳の北西突出部の石組み 
 全体的に州浜状に拳大の礫が敷かれている。特にせり出し部には庭園の荒磯風の景色である。但しこの遺構はあくまでも古墳での儀式の場であり、庭園ではないが技術的には飛鳥時代に始まる庭園手法の萌芽といえないだろうか。
 
城之越遺跡古墳時代の豪族が農業のための水の神を祭った遺跡。ここでは三箇所から湧き出る泉の周りを葺き石や立石で飾っている。写真のように水の流れる溝はまるで曲水のようで、また岬状の突出部の装飾は奈良市の平城京三条二坊宮跡のそれと瓜二つである。平城京の庭園は新羅などの影響であるが、その庭をそのまま受け入れたのは、古墳時代から古墳の装飾や当遺跡のような祭祀に関する装飾と通じるものがあったからではないだろうか。上記写真右の突出部は石と木材で階段状になっていて水汲みの儀式嬢か。
 
▲楯築神社磐座・磐境・御神体
  倉敷市矢部向山の山頂にあるこの岩組は中心に立石があり、その廻りを二重に円形状の環状列石が取り巻いている。このストーンサークル的配石と中心にある祠の中に呪術的な彫刻物からして古墳と思われる。私の考古学の師である原田大六先生によると、祠の中の石は桃果の陰形と縦縞模様の帯とでがんじがらめに巻き付けられている事からして遺骸の鬼を呪縛した表現である、とのこと。なお黄泉物語では桃果を鬼に投げつけて鬼がひるんでいる間に逃げている。

楯築遺跡・阿知神社
 倉敷市鶴形山山頂にあるこの神社は帰化人の阿智族により作られた。この磐座的なものと蓬莱的なものが混在されており、時代は下り、いわゆる原始庭園の発生とも言われている。
 
上野原遺跡(国分市)
  鹿児島飛行場近くの国分に上野原遺跡がある。何でも9500年前より縄文人が定住していた証拠が大量に出て来たとのこと。同様な遺跡で1万年も前のものが鹿児島市からも出ていたが、高速道路建設で破壊されてしまった。従来の定説を覆すのには時間がかかる。考えて見れば氷河時代が終わり、照葉樹林のドングリ・トチなどを食べ出すのは南方から始まったのは当たり前だった。「光は南方より」となる。
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