山口家の庭
長野県安曇野市堀金烏川70  電話:0263-72-4216  拝観は予め先方の都合を伺うこと
沿革
 山口家は歴代大庄屋の名家である。私は北アルプスへの登山道の一つである、烏川を目指してここに来た。はるか遠くからでも山を背にした鬱蒼とした森のある屋敷が見え、すぐに山口家であろうと推察できた。当家には30年程前にお伺いした事がある。そのとき、先々代の御当主から当地の灌漑用水用の井戸掘ったときの苦労話をお伺いした。翁は白髪に澄んだ目で淡々と語られた。
  「山間の傾斜地のため水不足で、村民は困っていた。そこで灌漑用の井戸を掘ることにしたが、アチコチ掘ってみたが一向に水が出ない、諦めかけたころ、最後の手段で当家の敷地(やや記憶があいまい)を試掘したところ、ふんだんに水が湧き出した。村民こぞって抱き合い感激をした。しかし、当家の庭の水源が涸れてしまわれた。」とのお話であったと思う。まさに「稲むらの火」である。
庭園
  庭園は庭園だけで独立しているのではなく、住宅と一体であり、さらには地域全体の文化として象徴的に存在しているのではないだろうか。私は当家の門前に立ち感じ、更に門を潜って感じた。何とも表現のしようのない雰囲気が満ちている。庭園のある家は数多くあるが、このような歴史を感じさせる雰囲気の家は大変貴重な存在だ。鬱蒼とした大木の森を背景としてその山畔に滝を落とし、その左右には横長に決まれた石組が美しい。手前のは横長の池があり、護岸に大きな石が置かれている。庭に面して7室も連なっていて、各部屋から滝の音に耳を傾けながら至福の時を楽しむことが出来る。
山口蒼輪氏
 山口肇氏は大正2年に第22代目として生まれ、昭和5年に18歳で院展に入選し画壇の麒麟児と言われた。意向連続して入選し昭和10年には院友となった。ふるさとの日常の風景を題材とした静謐な画風が認められた。当家は庭園もさることながら氏の作品を鑑賞できる。
ウエストン
 英国人宣教師のウエストンが山口家を宿舎として常念登山を行った。その時の日記によると。
 この村に着いて最初の仕事は村長を探し出すことであった。この付近には宿舎が一軒もないので村長の親切と助けに頼らなければならないと思った。しかし私たちは失望しないですんだ。村長の家は杉の立派な木立の直ぐ側にあって、大きな木の鳥居のような門が玄関の前の庭に続いている。右手の塀についている一つの戸口をくぐると、美しい庭に出た。この庭は美しい芸術心を持った日本人が好む箱庭式のものであった。慇懃に迎えられたので、私たちは広い縁側に上り、この上もない親切な歓迎を受けた。まず最初にこの家の長男が現われ、その次には六十歳の堂々とした紳士の村長、山口吉人自身が現われてきた。やがて召使が茶と菓子を持ってきた。それから次に出された小さなパイプをふかしながら、私たちは要件を話した。私たちの計画に耳を傾け、それについて熱心に意見を述べてくれた時ほど嬉しい思いをしたことがなかった。日本人のいつも言う「むさくるしい施設」に対して何度も謙遜した言葉で詫びた後、この善良な村長は美しい客間を三室(一室は通訳用)、私たちが自由に使うように供してくれた。そしてその夜、高い木々の間を渡るそよ風のささやきを聞いたり、夜鷹が物凄い声で鳴いているのが彼方の森に反響しているのに耳を傾けたりして、布団の上に横たわった。私たちは本当に「ゆっくりした」気持になった。  

▲屋敷を取り囲む塀と土蔵

▲威風堂々、これだけの門が他にあるのだろうか。この風景だけでも価値がある。

この門と同じ門が浅草伝法院にあり、その由緒が偲ばれる。

▲門を入ると広大な中庭がある。何とも言いようのない歴史が漂っている。書院の背後にはヒノキの大木が生い茂っている。

母屋正面

▲庭に面して10畳の間が7部屋もが続いている。上段の間には松本藩主も泊まったことがあるそうだ。

▲滝からは豊富な水が落ちている

▲池の手前の舟着石は巨石である

上記木橋奥の山畔には見事な石組がある

▲画面右側の巨石、二重護岸と鬱蒼とした林、それと贅沢な静謐。

上記写真の右奥(手前の木で見難いが)には鋭く石組されている

護岸には前後左右に石組みされ庭園の景観を引き立てている

菊  昭和6年

閑庭の響 昭和10年

茄子

初秋 昭和25年 37歳
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