酬恩庵  禅の真髄に満ちた枯山水  室町時代、江戸時代初期
京都府京田辺市薪里の内102  電話:0774−62−0193
沿革
  酬恩庵は大応国師の旧跡で妙勝寺と称した。1331年の兵火で焼失していたのを、1456年に一休禅師が修復して酬恩庵と改めた。翌年応仁の乱が始まると、一休禅師は京都にあった住坊の虎丘を酬恩庵に移した。さらに1475年に自らの寿塔(生前に建てておく自らの塔婆)を建てた。このとき廟前の庭が作られた。一休没後、信長の寺領没収により衰退するが、秀吉、家康の安堵を得に前田利常の寄進を受け復興した。このとき方丈の庭が作られた。尚、一休禅師は81歳のときに大徳寺住職となったがここから輿に乗り通ったそうである。
庭園
  廟前の庭園:廟のまん前に須弥山石の庭がある。このような仏教の根本である須弥山を象徴した庭は数少ないが、さすがに一休さんが生前に作っただけあり、仏教の真髄がそのまま形になっている。ただし聖地のため中にいることが出来ないが、参道を曲がったところに門があるので、そこの菊のご門から拝観したい。なお須弥山を形にした庭園は毛越寺、称名寺、北畠神社、万福寺などである。
  枯山水:方丈の北東の位置に龍門瀑の枯山水があり、それと連続して十六羅漢の石組みがある。龍門瀑枯山水の庭はコーナーに巨大な卵形の石がある。観音を象徴した石である。その左手前には不動を象徴した不動石がある。尚、このように中心に観音と不動を配した庭は大徳寺の本坊と大仙院である。龍門瀑の鯉魚石が垂直に飛翔している姿は厳しい禅を象徴している。台座石も鋭く切り込まれていて、修行の激しさを表している。手前にある四角な石は坐禅石で、禅の庭が修業の場であることを教えている最後の庭であろうか。左側には鶴亀兼用の岩組みがある。十六羅漢岩組みは方丈東側にあり大徳寺本坊のそれを髣髴とさせる。
  山門を一歩入れば凛とした空気が張り詰めている。桜並木の参道をもぼり詰めて、右折すると本堂への参道がある。途中右側に霊廟と庭が見え、その隣には虎丘庵があり、その奥に方丈への門がある。ここから玄関へはやや下り玄関に入る。方丈に入ると建築の構成は大徳寺本坊とほとんど同じである。方丈中央には一休禅師の木造がある。また本堂の脇には開山堂、宝物館もあり、見所の多い寺である。寺の敷地全体が禅の境地を表しているといえる。

▲もみじの参道  正面は本堂への門、右側の門は玄関口、写真の右側に慈楊塔の廟への門がある

▲玄関

▲滋楊塔前の須弥山石(カイラス山に似ている)、その後ろに見えるのが礼拝石


▲枯山水全景  当庭園は大徳寺大仙院と非常に似た構成
  生垣の後ろには山並みがあり、比叡山が望める

▲がっしりとした構成の龍門瀑  右下の四角い石は坐禅石

▲正面の大きな石は観音石、左下には不動石、中央の天平石は大座石、その右側の垂直の黒い石は鯉が飛翔した瞬間を表している。また中央に観音石と不動石を立てた庭は大徳寺の本坊、大仙院にある。

▲坐禅石と龍門瀑詳細  激流が谷あいをほとばしり、そこに鯉が跳躍している姿(黒くて垂直の石)

▲鶴亀島

▲十六羅漢石組  大徳寺本坊と同じく方丈の東側にある

▲方丈南の庭  庭の南には一休禅師の廟の滋楊塔がある

▲方丈南側の廊下

▲観音石の後ろには比叡山が望める。かつては連山が望めただろうが、現在は宅地化に伴いそれらを遮蔽すべく保立ちをし下いる。京都洛北の円通寺も同じ運命にある。
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