名古屋城・二の丸庭園
愛知県名古屋市中区旧二の丸  
沿革
  この地は織田信長が生まれた那古野城旧跡である。1610年家康の息子、徳川義直が清洲城より名古屋城に移った。このとき家康立会いのもと、城の普請が始まった。本丸は1615年、二の丸は1616年に完成し、庭はこのときに出来た。
庭園
  尾張徳川家は名古屋はもとより、江戸にも広大な敷地があり、そこにはいたるところ庭園であった。当庭園は当初の儒教的な庭から、鶴亀蓬莱式になり、拡大、破壊、明治時代に旧陸軍将校クラブ建設に伴う、庭園の解体、移設などをへている。そのため、全体構成が、大変解りにくいが、部分をよく見ると、立派な構成をしている。

▲旧将校クラブ前の庭(横からの景色)

▲旧将校クラブから見た庭。作者は表千家の茶人、吉田紹和によって明治14年に、北御庭を移築したもの。
材料もいいし、元からの庭も良かったのであろうが、茶人吉田紹和が単なる茶人でなかった事がわかる。

▲謡曲「石橋」の景色  権現山(右側)と田楽山に架かる石橋(左上にあるが、暗くて見えない)は謡曲「石橋」に因んでいる

▲上記写真を明るくして、上部に石橋を見えるようにした。玉澗流の架け方は上田宗箇の世界だ。

▲渓流を埋め尽くしている巨石は伊勢から運んだ青石である。尚、右端に見える石橋は本来は自然石であった(現在は三の丸庭園にある)。

▲中島の赤坂山。義直はこの島に四達堂を建て、御座の間と廊下でつないでいた。

▲笹巻山  全山凹みのある岩を積み上げてある。将に中国式の庭

▲上記写真の洞窟部分

▲二子山  大変珍しい岩組みで、亀島の上に鶴が組まれている
 
▲名古屋城                        ▲謡曲「石橋」に因んで牡丹が植えられている