建長寺 蘭渓道隆開山
鎌倉幕府と禅宗
栄西は1168年に入宋四手天台山を主とした巡礼を行った。このとき宋で流行していた禅宗に接し興味を持った。帰国後禅宗に関する知識を吸収し、20年後に再び入宋した。帰国後博多で建久報恩寺などを建立したが天台宗などの既成宗派による圧迫があり、1199年鎌倉に下向した。ここで北条政子の帰依を得て寿福寺を建立した。1202年には将軍頼家の援助を得て京都に建仁寺が建立された。栄西長年の懸案であった京都進出が出来た。しかし既成宗派との摩擦を避けるために、禅宗のほかに天台・真言宗も併せて兼修した。つまり純粋の宋風禅ではなかった。栄西は純粋禅宗の普及には自分の死後50年は必要であろうと予言している。
道元は1227年に帰朝し、一時期建仁寺にもいたが、天台・真言の兼修を容認した臨済禅を批判し、坐禅第一の曹洞宗に徹した。しかし既成宗派からの圧迫、妨害があり1243年に京都を去り福井の山中に永平寺を創建した。1247年に執権北条時頼の招きをうけ鎌倉へ出発した。しかし禅の修業に熱心な時頼はべつとして、一般武士は相変わらずの加持祈祷や、密教的行事がほとんどであった。時頼は禅寺を立て道元を開山に迎えようとしたが、それを断り翌年の1248年に永平寺に帰ってしまった。彼の選んだ道は俗塵を避け深山幽谷の場で禅を深化させることであった。しかし臨済宗のような発展はしなかった。
宋僧の蘭渓道隆(1213〜78年)は栄西の死後31年経過した1246年に来朝した。彼は1246年に34歳のとき宋から博多に到着。途中大分県の九重町で滝に出会い「龍門の滝」と命名した。その後上洛し泉涌寺に入るがやが、執権北条時頼に招かれ鎌倉に着いたのが1247年であった。翌年より建長寺の創建に参画し、開山第一祖として入寺した。蘭渓40歳であった。その後時頼の崇敬ますます篤く、後嵯峨天皇のの勅を受けて上洛し御前で禅の要諦を説いた。しかし彼の盛名を嫉妬してか、他宗派からの誹謗や圧力が激しくなり、ついには元寇のスパイ説まで飛び出した。彼は鎌倉を出て甲斐、信濃に二回にわたって都合11年間逃避行した。この間彼は東光寺を初めとして龍門瀑の庭園を作った。

鎌倉武士が禅宗を受け入れた背景

@道隆と祖元はあらゆる場面で自己という人間をひたすら研磨せよ、と述べるが、その教えは、戦いにおいて常に死と直面する武士の精神修養として受け止められた。
A宋僧の渡来は宗教のみならず先進文物や文化を触れることなので、都の貴族に対抗する精神的バックボーンになった。
B臨済宗は南宋のあつい庇護を受けていたので、鎌倉武士は由緒正しい新仏教として受け入れた。

▲三門

▲蘭渓道隆が自ら植えたといわれる柏槙(びゃくしん)。樹齢750年といわれ当寺創建時の生き証人
  この白槙を見ているだけでもここに来てよかったと思えるほど迫力がある。鬼気迫るとはこのことか。

▲修復された庭園
蘭渓道隆が日本に来て始めて作った言われている庭。右端に見える紫雲閣を創建750年を記念して建てている。蘭渓道隆は無論庭園を作るために来日したわけではないが、しかし博多に1246年に上陸したが直ちに上洛せず、大分県の九重町にある滝を訪れ龍門瀑にぴったりであることから、ここに寺を建て龍門寺とした。かように龍門瀑にこだわっていたのだから、執権北条時頼に請われ建長寺を創建した時に、このような穏やかな池だけを作るのだろうか。最も重要な伽藍の最奥部に。
修復庭園について
  多分どの時代かの古図に基づいた地割(心字)をを再現したのであろうか。なかなか変化があり面白そうだ。しかし、およそ庭園らしい石が無いではないか。後世どこかに持ち出したものであろうか、初めからこのような小石による護岸工事のようなものであったであろうか。1262年に甲府市にある東光寺の累々たる石の庭とは余りに異なった感覚である。誰が修復しても賛否両論であろう、しかし日本庭園を精神性のある世界でも稀有な存在にした禅庭園の最初のものである。鎌倉市の教育委員会と建長寺はその根拠を公開してほしいものだ。

▲窪地を利用した巧みな池

▲シャープな地割

▲このような抽象性の高い庭に具象的過ぎるのではないか。左奥のハレーションしている部分の滝口は何であろうか。建物奥の石垣はなんと風情を壊すのではないか。
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