桂家庭園 奇想天外で清新な庭  山口県防府市下右田1091-1
1 沿革
1712年桂家の初代桂運平忠晴(1664〜1747)によって作られた。忠晴は萩毛利家の家臣で、藩主綱広の次男就勝(なりかつ)が、毛利七家の一つ防府の右田毛利家に入った時に、忠晴も就勝に従って防府に入り、右田毛利家の家老職を務めた。
 忠晴は、当時右田毛利家で最も困難を極めていた佐波川の川尻の開拓事業に取り組むことになった。本庭は、その困難な工事の成就を祈願して築造されたとされる。
 
系図の記録によると「忠晴は14歳にしてすでに江戸に行き、防府と往来すること11度に及んだ。その間
、忠晴は諸所方々の庭を見学する機会に恵まれたと思われる。また彼は詩歌を好み、禅を修め、茶道にを一家をなし、数寄屋者風があったという」。

参考資料)
@『竜安寺石庭』 大山平四郎著 講談社 221〜228Pからは多くの事を学んだ
A『日本の庭』 福田和彦著 河出書房新社刊 190〜199P・257〜269P 昭和38年発刊の著書により初めて「月の桂の庭」として紹介された。
B防府市教育委員会 教育部 文化財課より古地図と干拓工事の記録を提供された。
巻末に掲載
C『日本庭園鑑賞辞典』 斉藤忠一著 東京堂出版 204・205P

D正受庵の手水鉢 『信州の庭園めぐり』 小口基実著 信濃毎日新聞 45P  巻末に掲載
             『信州の庭園』 第五巻小口基実 小口庭園グリーンエクステリアー 1〜14P
2 当地の自然環境
@庭園の土塀背後には佐波川が左手前(北東)から右奥(南西)へと流れている。
 御当主の桂良彦氏のお話では、時おり佐波川上空に西向きの気流による美しい霧が発生するそうである。
A河口には向島と田島に囲まれた天然の良港である三田尻港があり、北前船の寄港地である(江戸時代では東風が吹くと、三田尻港の帆船が下関港に向かって出帆していた)。
B庭園からは佐波川河口に桂運平忠晴が干拓下た塩田が見えていたと推測する(現在では工場や新幹線等で見ることはできない)。
C庭園の土塀越しには美しい形の天神山(防府天満宮が祭られている)が見え抽象枯山水庭園を生み出す要素がある。
3 石組みの概要
@庭園はL字型をしているが、東に面した壁際に始まる石組みは2石一対になった4組の石組みは総て向かって右側(西側)の石が低くなっている。
A二段構成の平板な一石による造形は4箇所あるが、上記石組と同様に例外なく右側(西側)が低くなっていて、視線が右側に誘導されている。なお、この石は立石組間に配されていて、斬新な立石同志の混濁を避けるような緻密な設計である。
B個性的な3ヶ所の立石組みは前代未聞の斬新さがあり、従来の石組とは類型的でなく、作者の桂運平忠晴の独自な造形である。
4 石組みの動機と意図
@作庭の動機
:眼下に見える佐波川の改修と塩田の干拓工事が、無事終了することを祈願したのであろう。
A作庭の意図:三田尻港で風待ちしていた帆船が、東風が吹くと一斉に出帆する景色が脳裏にあったと思われる。しかし、このような景色を具象的に表現しようとしたのではなく、その背後にある「風の流れと船の動きを」抽象的に表現しようとした、と思われる。最も困難なテーマであればこそ、遂行に遂行を重ねて作庭したと思われる。
5 石組の概要写真

東に面した庭園部

L字型庭園の屈曲部には庭園を際立たせている独創的な造形がある。
この造形は類型的ではなく、全くの創作であり、作者の天才的な才能の表れである。

庭園の南面部石組
 美しい庭園の土塀背後には借景のランドマークとなる、甘南備山である天神山(167m)が見える(防府天満宮が祭られている)。明治時代までは桂家の干拓工事によって作られた、塩田が見えていたであろう。

6 庭園の細部石組
 庭園を構成する要素は@2石一対の石組みが4箇所ある。A特徴的な2段に組まれた立石組みが3箇所ある。B左記@Aの石組間に配石された平板な石(よく見ると二段構成で、石の角には突起部)が4箇所あり、前後の石との有期的な関連性を付けている。

@2石一対の石組み:東側の壁に付いている石組と2石がやや離れた石組みになっている
A石組間にある平板な臥石は左右の立石組みの緩衝材のような役割を持ち、かつ右手側の平板な石との有機的な繋がりを与えるための突起が出ている。

造形の意図
三田尻港に停泊していた帆船が、東風の風で一斉に出帆する景色をイメージしていた。
左奥の造形は出発寸前の状態を表し、手前の石組は出帆直後の様子を表象している、と思う。

平板な臥石の特徴と役割:立石組間には平板な臥石を配石しているが、これは各立石組の独立性が保たれ、煩雑な印象を与えない効果がある。またこの平板な臥石は画面の3箇所(視野外にある1石を入れると都合4箇所)とも、例外なく右側が低くなっており、視線は自然に右側に誘導される。更にこれらの石には突起があり平板な石同士の関連性を持たせていて、心憎いばかりの緻密な設計思想が垣間見える。

南に面した庭園には特異な造形の石組みが3箇所ある。

書院からの景:中央にある平板な臥石の特徴は、左側の臥石と有機的に繋げる突起が出ている

 中央にある二段構成の石の左側には、断面が四分円の石を逆さに立て、三段構成にしている。2石一対の石組みや平板であるが二段構成の石の造形と同様に右側を低くして、視線を右側(西側)に誘導している。これらの石組み構成の帰結は写真右下の一石による長方体の石ではなかろうか。この直方体の石はフルスピードになった舟を象徴しているであろう。更に付け加えるのであれば、この長方体の石の右側には、他の石組間の間隔よりも多い余白がある。この石の余白の大きさは、船のスピード感を表す絶妙の造形感覚かと思う。

これらの造形の意図)
 総ての石組みは西側に誘導されているが、帆船の造形を直接的に表すのではなく、東風により船が次第にスピードが上がっていることを表象していると思われる。特に直方体の石はスピードが最大ななったことを表象している。更ににその先の余白を多くした造形感覚はスピードを抽象表現していると思う。

7 立石造形の意味
 この特徴的な立石組を「独創的、芸術的感性」と言う言葉だけで処理すべきではないと思う。私は無理やりに石組みの解釈をすべきと思っているわけではない。作者の桂運平忠晴の強い意図があるに違いないと思うからである。彼は1712年に造園をする際に「強い願い」があったと思うからである。何も芸術家気取りで奇抜な造形を作ったとは絶対に思えないからだ。


私の見解)
 左側のL字型の石組みは三日月を象徴し、中央の立石は上弦の月を象徴し、右側の断面が四分円のような石は満月を表していると思う。即ちこれら三組の石組み全体で工事が無事完了することの願いとを表象ではなかろうか。

 彼の意思は干拓工事が無事に完成することであろう。土木機器がほとんどない時代での工事は困難を極めたに違いない。

 巨大なL字型の石を小さな台座に乗せた石組みは日本庭園史上前代未聞である。この突飛ともいえる石組みはこの石組み単独で解釈するのでなく、3対の石組みで総合的に考えてみたい。

 3枚の平板な臥石に囲まれた立石組みは、上記のL字型の石組とはやや構成が異なっている。東側の壁際近くにある2石の石組みをベースとして、その上に石を載せた格好になっている。しかしこの石組の本来の目的は先端部にある欠損した造形にあるに違いないとおもう。

この石組の主石は書院から見ると断面は四分円のように見える。この石を、かまし石で支えた何とも不安定な造形だ。これまた何とも気になる石組みである。

8 平板一石(臥石)による造形

このような石は全部で4箇所に配石されている。いずれの石も例外なく以下の特徴がある。
・向かって右側が低くなっている(視線を右側に誘導している)
・形は概ね菱形をしているが、鋭角な角や突起部は4石間の関連性を持たせている。
・4石とも特徴的な立体造形間に配石させている(各立体造形を際立たせるために)

 このような石を選択した目的は視線を右側へ誘導する役割と同時に、特異な立体造形群を引き立たせる役割があると思う。

東部の石組み間に配石

東南部に配石

南部の立石組み部前に

南部の立石組み間に配石(よく見ると二段構成)

資料1
古地図の紹介(防府市教育委員会 教育部 文化財課より)


江戸時代末期になると干拓は相当進んでいたことが解る。田島は陸地の一部となり向島と塩田の距離は近くなり、ここを通る船は水道のようなところを通ることになる。
 この塩田で作られた塩は北前船で下関を経由して日本海沿岸の街に送られた。
注)地図上にある「●桂家庭園」は私が推測して記入した。


南北朝時代の防府市:向島や田島(この時代は陸地と離れていた)に囲まれていた良好である。


当一覧表では毛利吉広が元禄12年と正徳4年の干拓内容が記されているが、巻頭に著した毛利就勝(なりかつ)の事である。毛利吉広は1707年に夭折(35歳)しているので、吉広は上記一覧表の1717年の工事には直接関与していないのであろう。一方、毛利就久(なりひさ)は1717から工事を行っているので忠晴はこの工事にも関係していたと思われる。

ウィキペディアによると(毛利就勝=毛利吉広)
吉川広嘉九曜紋を与えられて幼名を吉川千之助と称した[要出典]貞享元年(1684年)に一門八家の一つ右田毛利家当主・毛利就信の養嗣子となり、異母兄で長州藩主を継いでいた毛利吉就から偏諱を授与されて毛利就勝(なりかつ)と名乗っていたが、吉就が嗣子無くして早世するとその養嗣子として跡を継いで叙任される。同時に兄同様、第5代将軍徳川綱吉より偏諱を賜り、亡き父の1字を取って吉広に改名。藩財政窮乏化のため、三田尻海岸の干拓、橋本川の治水工事、城下町整備や検地など多くの改革を行なったが、兄同様に宝永4年(1707年)10月13日に早世したため、改革は失敗に終わった。享年35。

資料2

正受庵の手水鉢


 正受庵は300年ほど前に正受上人と呼ぶ禅師が住んだ寺である。上人は松代城主、真田信行の子として1642年に飯山城で生まれた。19歳で出家して臨済禅の法を継いだ。1676年に飯山に帰った。城主は大寺院を建立しようと考えた。しかし彼は「出家には三衣、一鉢さえあればそれでよい。それ以上のものを求め、民の富を奪って何の利益があろうか」と固辞して受けず、手水鉢とイチイの木だけを拝領したという。
 水戸光圀も、度々使者を送って水戸藩に招いたが、これにも答えず、ただ生涯を禅三昧にすごし、自給自足の生活を重んじたという。弟子には白隠等がいた。その寺は後時代とともに衰退したが、ついに明治七年には廃寺となった。
 その後、鉄舟と泥舟が来庵して正受庵の復興を志し、その結果明治17年に妙心寺派として再興した。
●桂家庭園
(標高約26m)