大徳寺本坊庭園  江戸時代初期  枯山水
京都市北区紫野大徳寺町53 電話:075−491−0019  (非公開であるが秋の特別拝観有)
  1319年赤松則村・則祐親子が、大燈国師を開山jとして禅寺を建立。1325年には花園上皇も国師に帰依し勅願所となり、大徳寺銘じた。応仁の乱で消失後、1473年後土御門天皇より大徳寺の復興の命を受けた一休宗純は堺の豪商尾和宗臨の寄付を受けて方丈の再建を図った。1636は大燈国師の300年忌にあたり新しく大方丈を建立した。このとき当庭園が造られた。作庭者は小堀遠州と天佑紹杲の二説がある。

▲枯滝石組   不動尊(左)と観音石(右)が並び、その右が枯滝である。
この意味は斎藤先生「図解 日本の庭146頁 東京堂出版」によると
「滝は悟りに至る修行を表す。鯉魚は龍と化し、修行僧は観音の知恵を得る。不動明王は大日如来はの化身として、どのような滝にも内在し、滝に向かうものがあれば何者でも助ける。滝を跳躍飛せんとする者には力を与え、岩に額を打ち付けて瀕死の者を救い上げて助ける。


▲枯滝、山河、大海の景  斎藤先生によると(日本庭園鑑賞辞典 東京道出版)
「石組みは荒ぶったところが一つもなく、非常に品格がある。また、本庭には石橋がない。大海を渡り、揚子江をのぼってインドからやって来た禅の初祖・達磨が壁面9年をした。そういった情景を表現しているので、石橋がないというよりも不要であったろう」とある。

▲方丈東側の十六羅漢石組み。 羅漢が座禅をしているイメージである。

▲境内は常に美しい、峻厳

▲黄梅院入り口(特別拝観日のみ可)