場所 コリント遺跡
 コリントはギリシャ内陸部とペロポネソス半島を繋ぐ括れた位置にある。その地形的な有利さのため古来より戦略上の重要な地点であった。古代コリントが最も繁栄したのは紀元前7世紀で、ギリシャが植民地貿易をしていた頃の重要な商工業都市であった。その後アテネの繁栄で影が薄くなるがアレキサンダー大王の時代にはギリシャ都市国家「コリントス同盟」の長として繁栄をする。ローマ時代にはアカイヤ同盟を造りローマに反抗したが前146年コリントは破壊された。しかしその後シーザーやアウグスティヌスにより復活し、ローマのアカイヤ州の首都となり反映した。この頃の門前町として繁栄し神殿娼婦が1000人もいた、と言われている。いわゆる「コリント風に生きる」とは性的不品行を意味するまでになった。パウロはこのことについて不道徳なことについて諌めている。
 この街の運河はネロが66年より開削を始めたが結局頓挫した。本格的な工事は1881年に始まり1893年完成した。長さ6.4Km 幅24m、深さ8m、橋から水面まで約50m。

▲紀元前6世紀のドーリア式は最も古い部類

▲アクロポリスを背にしたアポロン神殿

▲レカイオン通りからアクロコリントを望む

▲パウロはこのベーマで何を訴えたのだろう

 アテネを追われるように去ったパウロたちは中継商業都市として活況を呈している神前町コリントではかなりの信者の獲得に成功している。ここでは一年六ヶ月滞在して渾身の力を振り絞って宣教した。パウロはテント造りを生業としていたため同業者のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラと知り合いになり彼らの信頼を得てしだいに地域の溶け込んでいった。ここで解る事は高邁なお説教と言えども他人の働きを当てにしてでのお説教では信者を得ることが出来なかったであろう。パウロのこの方法は後世にも影響を与えている。アウグスティヌスはカルタゴの放浪修道士がただ祈るだけの偽善的生活を改めるよう訓戒しているが、その中でパウロのことを引き合いに出して説得している。今野国雄「修道院ー祈り・禁欲・労働の源流」岩波新書
 またパウロは爛熟したコリント風の生きかたにも警告を発している。

 パウロが最も苦境に陥ったのは律法を信じるユダヤ人や異邦人ではなくキリスト教を信じるユダヤ人のようである。エルサレムにいる守旧派ともいえる人々を「偽の使徒」と言っているところから、パウロの福音とは異なった内容を宣教しているようだ。このコリントのみならずガラテヤでも信徒の動揺が起きて心を痛めている。何しろイエスの直弟子の12使徒と比べて正当性を言われると弱いところがある。しかしパウロは人が救われるのは割礼などの律法によるのではなくイエス・キリストへの信仰によってであると説いたのである。このことがあって初めて異邦人でも救われるのだから。

使徒
コリントで 18:1〜18
その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。 ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、「この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております」と言った。パウロが話し始めようとしたとき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。」 そして、彼らを法廷から追い出した。 すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった。パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った

コリントの信徒への手紙一 不道徳な人々との交際 5:1〜3
現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。

コリントの信徒への手紙一 主の晩餐の制定 11:23〜26
わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

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