ドイツのロマネスク・ゴシック様式の聖堂
歴史
 
フランク王国の分裂、東フランク王国の断絶(911年)後、諸侯より選ばれテ王位についたザクセン家のドイツ王は、全盛期からのノルマンの略奪やスラブ・マジャールの進入からドイツを守りヨーロッパの混乱を収拾した。962年に神聖ローマ帝国の帝冠をいただいたオットー1世は(在位936〜973年)はキリスト教会の支配権を握った。このような絶対的な支配権はビザンチン帝国(東ローマ帝国)と同様に政教一体の政治組織が整った。オットー朝のドイツはカロリング朝以来の伝統を引き継いで建築においてもヨーロッパ世界に君臨した。
  しかし11世紀後半からは叙任権闘争とイタリア支配の不首尾から、皇帝は諸侯に譲歩を重ね、フランス軍に大敗するに及んで、皇帝の権威は地に落ち、ついには皇帝不在の大空位時代(1254〜73年)を迎えるにいたった。一方フランスは教皇庁と手を組んで、王権を強化し、ついにはイギリスをフランス本土から追い出した。13世紀になると農業革命を背景としてフランスの国力は大いに伸長しゴシック様式の聖堂が各地に建設された。もはやヨーロッパの覇者は完全にドイツからフランスに移ってしまった。ドイツの建築様式はロマネスク様式が長く続き、1230年以降にゴシック様式が採用されるようになった。
ケルン(ドイツ)のロマネスク様式の聖堂(この項はケルンより抜粋)
  ケルンといえば大聖堂と相場が決まっているかのようだ。しかし、駅前のインフォーメーションで購入した本によると、ここに記した4つの聖堂の他に8つものロマネスク様式の聖堂がある。
  一般的にはロマネスクといえばフランス、スペインと相場が決まってしまっている。確かにスペインは巡礼の道でもあるので各種の本にも記載されている。しかしドイツに関してはロマネスク聖堂に関する単行本には、今のところお目にかかっていない。小学館や講談社の美術全集で一部が記載されているだけである。
  今回始めてドイツの聖堂巡りをしたが、いたるところにロマネスク様式や、プレロマネスク様式の聖堂があるのには驚いた。ドイツはなぜかロマネスク様式を意図的に踏襲しようとしたのではないだろうか。
  ところが第二次世界大戦で大半の聖堂は灰燼に帰してしまった。しかしドイツ国民は民族のアイデンティーを確認するためにその大半を修復した。どこの聖堂に行っても破壊してしまった、愚かさを記憶に留めるために、破壊状況を示すパネルが展示されている。
西構え(この項はコルヴァイより抜粋)
  コルヴァイ修道院はカロリング朝以来の伝統である「西構え」の唯一の現存例である。
  西構えとは「カロリング朝のバシリカ型聖堂の西側に接して建てられた半独立の聖堂。多層になった内部と3本の塔を持つ外観を特徴とする」。塔はギリシャ・ローマの建築にはなく、またビザンチンの建物にも例がない。突然にフランク王国を統一したカール大帝の時代(カロリング王朝)に出現した。この伝統はフランク王国の分裂(843年)後、混乱を収拾したザクセン家のハインリッヒ1世とその息子オットー大帝のオットー朝にも引き継がれ、更に「ロマネスク時代からゴシック時代に引き継がれた。中世のヨーロッパの人々が抱きつづけてきた塔への憧憬は最終的にはケルンの大聖堂で帰結した。
  蛇足ながら付け加えると、ロマネスク時代は多塔式聖堂であったが、ゴシック時代になると西構えの塔が発展して西側の塔の建設に勢力が集中してしまう。しかしその塔はあまりにも壮大になりすぎて塔の完成に至らなかった例が多い。例えばラン・ランス・アミアン・パリのノートルダム大聖堂など。
  現在完全な形で残っている西構えは一つもないが、このコルヴァイは構成の改変を受けながら本来の西構えの内部空間を今日のとどめている。この他西構えの様子を示している聖堂はシュパイアー大聖堂、ケルンのザンクト・パンタレオン、、ソースト大聖堂(1塔型)、など。西構えがあったことがわかっている例としてはロルシュ、ケントゥーラ、ランス、ヒルデスハイム、ヴォルムスなどである。
  では、ギリシャ・ローマ・ビザンティンになかった塔がなぜカール大帝の時代に出現したのであろうか。現在の説では「皇帝聖堂説」が有力だ。即ち皇帝が東側にある聖堂に向かって西側の二階から礼拝を行えば
聖堂(神)を俯瞰でき、聖堂内の人々からは西日の後光に包まれた皇帝を見ることになる。このような構成にすることが出来たのは皇帝が絶対的なな権力を確保できたカール大帝やオットー大帝のときだけで、以後は廃れていく。因みにアーヒェンのドームの二階には皇帝の玉座があり同じような構成である。
参考文献 「西構えから2塔型西正面へ」 辻本敬子  小学館 世界美術大全集 ゴシック1
       「オットー朝美術」        長塚安司   小学館 世界美術大全集 ロマネスク    
二重内陣式
  「聖堂の東西両端にそれぞれ一つずつ内陣を持つ形式」
  ドイツの聖堂にはこの種のものが実に多い。フランスなどの聖堂を見慣れていると少し奇異に感じあられる。フランスなどでは内陣は東側に一つあるだけで、西側には大きなファサードがある。その入り口のティンパヌム(扉口開口部のまぐさ石と、その上部のアーチに囲まれた半円形の部分)にはその聖堂に関する最も重要なメッセージを表す彫刻が刻まれている。ドイツの聖堂は東西に内陣があるため、入り口は多くの場合、南北にあり小さく無愛想に見える。
  このような伝統はカロリング朝に始まりオットー朝で独特の発展を遂げた。ではなぜカロリング朝で二重内陣式聖堂が発展したのであろうか。その起源はハッキリしないようであるが、上記「西構え」と同様にカロリング朝のカール大帝、オットー朝のオットー大帝の絶対的な皇帝権力を背景にした聖堂での儀礼様式に起因するのではなかろうか。
  その例を挙げると、先ずヒルデスハイムのザンクト・ミヒャエル聖堂、961年に建設されたゲルンローデのザンクト・ツィリアクス聖堂、1000年に奉献されたマインツ大聖堂、マリアラーハ修道院、ヴォルムス大聖堂など。
その他
@初期キリスト教時代のバシリカ式聖堂の継承
A木の平天井(シュパイアーやヴォルムスも当初は木の平天井であったが、途中から石造の交差ヴォールトに改修された)。
B列柱の交互変化(円柱と角柱を交互に配する)
C柱頭の彫刻は浮き彫り装飾が多い
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